昭和56年4月13日 朝の御理解      【 末永信太郎 】

第64節 此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参     って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。




 どんなに的確に御教えを頂きましても、それを(    )なかったら、おかげになりません。いかに合楽と言うても、合楽に参ったというだけでおかげを頂くおかげは、もらい水に過ぎません。教祖様がここに教えておられるのは、身しのぎの出来るような信心。身に徳を受けてと言うておられます。その身に徳を受け、身しのぎが出けるような信心を頂かなければ、まっ、言うならば合楽通いの値打ちがありません。

 合楽では、ね、どういう信心を、またどういう生き方をさせて頂いたらおかげが受けられるか。まっ、真のおかげと申しましょうかね。言うならば、おかげの受け物と言うてもいいでしょうね。おかげの受け物を作る手立てを教えて頂くのです。ですから、こういう信心になれば御徳が受けられると的確に、まっ、言うなら頂きましても。

 この薬が効くと詳報された薬を頂いて帰っても、それを飲まなかったら、その薬を頂いただけでは値打ちがないようなものなんです。ね、これは、確かにこの方は参って尋ねる所がなかったと仰せられますが。ね。金光大神が身を持って、天地金乃神様からの直伝。言うならば御教えを蒙られて。それを参って来る氏子に伝えられた。ところが、段々その御教えがあまりにも、深さ、広さにかえってこう、(ぎょうわく?りょうわく?)と申しますか、何か通りいっぺんの頂き方になって、まあ、言うなら格好いい金光教というような事書きが、金光教のように思われるようになりましたが。

 だんだん、生き生きとした働きが無くなって来た。そこに、いわば合楽の誕生。そして、合楽理念の発表。その、合楽理念こそ真であり、真心だよと。金光教の信心の、言うならば確信。それは、もうとにかく真だ、真心だという事になるのですが。そんなら、その真の心をいよいよ追求したいと思うても、それをどこまでが真なのか、真心なのか分からなかった。それを、合楽ではハッキリ、合楽理念こそ真だと説くのです。

 ですから、合楽理念を本気で行ずるという事になると、そこに真のおかげが必ず伴うのです。ね。ですから、合楽ではそういう意味で、ね、一人ひとり的確に教えて頂くのですから、それをいよいよ身につけて行くおかげを受けなければなりません。なかなかですね、その教えを、もう日々浴びるようにいわば頂いておりましても。何か知らん、まあ、通りいっぺんになる。

 昨日は、美登理会でしたが。皆さんの、まあ、本当に素晴らしいお話を銘々聞かせて頂きましたが。熊谷さんが発表しておられました。べつに、特別なこういう奇跡なおかげを頂いて、こうというな話ではなくて。ここ2~3日の、日々の熊谷さん自身の在り方を、もうしかも、神様がもう付き通しに付いてござるという、言うなら、合楽的リズムに乗りに乗っての2~3日の話をなさいました。

 まあ、今日の発表じゃこれが一番と言うて、私は申した事でございますけれども。もう、リズムに乗って、日々の生活の中に生き生きと神様を頂き現して行くということ。ね、まあ、そこが合楽の成り行きを尊ぶとか、成り行きを大切にするという生き方を身につけて行くと、そういう、言うなら調子が出て来るんです。信心が楽しゅうなって来るんです、有り難くなって来るんです。ね。

 とにかく合楽理念に基づく生き方を、いよいよ身につけなければならんのですけど。これがね、やっぱ一つのそれぞれの信心を進めて行く、本当に頂いて行くという、何かそこに(転機?てんきれ?)というものがいるですね。自分の生き方が、もうあの日を境に、あの御教えを境にころっと変わったといったような。だから、日々(を御用?)させて頂いて、そこんところを願いに願い、祈りに祈って参りませんと、ただ、おかげの頂けれるお話を沢山聞いただけでは、大した事はない。

 聞いている内に信心の、言うなら本当の信心への転機が頂かれる訳ですね。昨日、美登理会のあっておる半ばに、久留米の石田さんがある方を、ある方って言うが、息子嫁さんのお母さんをお導きして見えられました。だから、途中で立って、ここへ御結界へ奉仕させて頂いて。何て言うですかね。石田さんのその生き方に、まっ、転機を与えたもの。それは、合楽の御理解であった。もう、見方、考え方がもう本当に、もうこう、変わって行く。

 その変わって行かれる様子に、その、嫁さんのお母さんが感じられた。そういう所があるなら、ぜひ自分も連れて参ってくれというのが、昨日の初参拝であった訳です。まっ、これも大変、素晴らしいそのお話でございましたが。そんな訳で私は、その、研修室からここへ座らせて頂いて、石田さんのお取次ぎを終わらせて頂いたところに、久留米の井上太郎先生が参ってきたんです。最近、井上先生、自宅に今帰っております。そして、お母さんと一緒に毎朝こうして、朝の御祈念に参って来るんです。

 もう、ここで修行中にゃそれこそ、朝の御祈念にも出て来る事がなかった井上先生が、家に帰らせて頂いた途端に、お母さんと一緒に(   )日参して来るようになった。昨日ここで、まっ、二度目のお参りです。もう親先生、今日は何か知らんけれども、合楽へ合楽へ、もう何か自分の心がね、もうお参りをしなければおられない思いで、今日は参って参りました。そしたら、親先生がここに座っておられないはずなのに、親先生が座っておられたという事が、非常に感動だったらしいですね。

 私はあの、信心はね、そういうものがね、一つの転機を呼ぶと思うです。段々、こうやって合楽と、言うなら私と皆さんという間柄が段々近くなってまいりまして、何か知らん、もう朝参りしとるけん、もう今日はこれで済んだといったようなものではなくて。何とはなしに、言うならば、もうとにかく、思わず足が合楽に向かうておった。そういう止むに止まれん思いでお参りをさせて頂いたら、もう御結界におるはずのない先生が、そこに親先生が座っておった。

 もう、それだけで何とはなしに心の交流というかね。ピチッとした何かを感ずるです。そういう、言うならば、井上先生、今日のその心を育てて行くとが信心だよと言うて、申しました事でしたけどね。そういう心を育てて行くということ。そこから入って来る御理解が、いよいよ血になり肉になるのです。ね。せっかく、んならここで、言うならば長年修行させて頂いたばってん。昨日のような気持ちになったのは、太郎先生はおそらく初めてだろうと、こう思うです。

 ね、例えばお道の教師を志した。というのは、自分の全身全霊を神様に捧げるというのですから、こんな素晴らしい事はないけれども。いかに素晴らしいと言うても、ね、昨日の御理解じゃないですけれどもね。熨斗、神様に熨斗つけてお供えしとるようなもんであっても、神様が受けて下さらないなら、どうにも仕方がない。ね。全身全霊お供えしますと言うても。ね、そこには、言うならキチッとした信心の帯がしてなかったら、神様、いわば熨斗としての、自分の身、体に熨斗をつけると言うても、熨斗つけた事にはならない。

 一生、神様のお邪魔、お厄介にならなきゃならんという事に終わってしまう。ね、そうでしょうが皆さん。んなら、いらん物ばもろうたっちゃ、役にも立たんし、かえって邪魔になるような事でしょうが、同じです。ね。その、なら、井上太郎先生が、そこに、まっ、一心、まっ、転機を与えられた。ね、改めて合楽で頂く御教えがだんだん感じるようになった。ね。初めて、言うならば信心の帯がこう出けだしてきた。

 ね、信心の帯をしっかりするようになっただけではない、それこそ合楽が慕わしゅうて、慕わしゅうてというような心の状態すら開けて来た。ずっとここにおる時にゃそうではなかったけれども、離れて見て初めて、言うならば合楽の有り難さが分かって来たという感じです。ね。そこから、もうそういう信心が育って行く限り、必ず、ね、身しのぎが出けるようになります、身に徳を受けることが出けます。

 ね、そういう、私はいわば、お繰り合わせ。せっかく、ね、まあ、言うなら金光様の本当の真の信心を頂きたいと念願しておる人は沢山ありましょう。けれども、与えられる事の少ない今日の、まっ、金光教。ね、そこに、合楽ではです、言うなら、的確にこういう生き方すれば、おかげが受けられる。こういう頂き方になって行くならばお徳が受けられる。しかも、見やすう。その気になりゃ誰でも頂けるような、言うならば表現が合楽理念の中に、まっ、唄われてある。

 ね、それを、こここそ自分がという、こう頂き止めるものが。ね、しかも一つの動燃心を持って神様へ向かい。ね。その、昨日の熊谷さんのお話じゃないけれども。もう、日々が神様が奏でて下さるリズムに、乗りに乗っての生き方ていうものが身について行く限り、必ず道はつくでしょう。必ず、身しのぎの出けるようなおかげも頂けると、私は思います。どんなに的確におかげの頂けれるお話を頂いても。ね、それを、言うならば頂きもお守りもしなかったら、言うなら、いかに合楽でも同じ事だという事でございます。どうぞ。